リーマンのスピリチュアル立ち往生日記-eSpirituaLiterature

スピリチュアルを日々の生活に取り入れながらはたらくリーマン

クレオールのDNAを持つ子孫たち(アメリカ・ルイジアナ編)小泉八雲

このブログは、40代 iSpiritsリーマンが「 なんとなくスピリチュアル的」なことに関してつづっています。

 

今回は、スピリチャル・フーズ紀行です。

 

今回は、作家の小泉八雲ラフカディオ・ハーン)についてです。

小泉八雲 Wikipedia スピリチュアル

<Wikipedia>

ギリシャで生まれ、日本国籍を取得した小泉八雲ニューオーリンズの文学生活にも多大な影響を与えています。

 

 

12年間のニューオリンズ生活


小泉八雲は1877年から約12年間、ニューオリンズに滞在しました。
在職中には、新聞記事、書評、社説、翻訳、詩、短編小説、物語集、小説『最後の島の記憶』(Chita: A Memory of Last Island)などを数多く発表し、精力的に執筆活動を行っています。


これらの出版物では、ハーンは特に生き生きとしたポピュラーなイメージを生み出し、今日に残るニューオーリンズに関する神話や民話を物語にすることに貢献しました。


ニューオーリンズでは、地元のクレオール文化をわかりやすく他人に説明する方法を学んだようです。そして、この背景が彼が日本に住み、日本のことを書いているときにも非常に役立ったのではないでしょうか?

 

幼少期

1850年6月27日、ギリシャのレフカス島に生まれたパトリック・ラフカディオ・ハーンは、イギリス軍で医師として活躍したアイルランド人チャールズ・ブッシュ・ハーンの息子です。そして、母親のローザ・アントニウ・カシマティは、ギリシャ人でした。


ハーンは、幼少期の教育のためにアイルランドのダブリン、そしてイギリスのダラムに送られました。


19歳でオハイオ州シンシナティに移住し、そこで ジャーナリストとしての見習い生活を始めました。


かなり貧しかったものの、ハーンはシンシナティ・デイリー・インクワイアラー紙で急速に頭角を現し始めました。

 

人種差別にあう


しかし、黒人女性(Alethea "Mattie" Foley)と結婚したことが広まり始めると、混血の罪で解雇され、シンシナティ商業紙(The Cincinnati Commercial)に就職しました。


そこで彼は、また記者としての評判を得て、特にセンセーショナルな出来事や、日々接してきた、下層階級を巻き込んだ出来事を書くことで、評判を高めていったそうです。

 

ニューオリンズへ移住

1877年に、小泉八雲ニューオーリンズに移りました。

その後はシティ・アイテム( The City Item)や定評のあるタイムズ・デモクラート(Times Democrat)などの地方紙にも執筆しました。最終的には、全国的な定期刊行物である『Harper's』や『Scribner's』にも寄稿しました。

 

ニューオーリンズで過ごした期間は12年弱でしたが、この期間はこの後の仕事のための重要な準備期間となりました。彼は、文化を人々に説明する能力に長けていました。特に、アメリカ全土からのニューオリンズを訪れる観客にルイジアナクレオール文化をわかりやすく説明し、ニューオリンズに命を吹き込んだのです。

 

特に、スピリチュアル的な面で、ニューオーリンズを強くアピールしてゆくことになった主要な力となったそうです。薬、料理、音楽、カーニバルの伝統などのクレオール文化に関することは今でも語り継がれているようです。

 

例えば、葬儀の風習、幽霊、ブードゥー教、スピリチュアル的な題材など、名前を挙げることができないほど豊富なトピックはすべて、八雲の豊富な題材から恩恵を受けているといわれています。

 

今日のニューオーリンズ観光の標準的なスローガンである「ニューオーリンズアメリカ的ではない」「ケア・フォ ールド・シティ*1」「ビッグ・イージー

 

*2

 

」という言葉は、ハーンのジャーナリズムに由来しているのかもしれません。

 

 

八雲は、ニューオーリンズを「香水と夢の国(“a land of perfume and dreams”)」と感じており、この街に対する八雲の情熱は熱狂的なものとかたれているそうです。12年間の滞在で少なくとも2,000本以上のニュース記事を書き、それに加えて多数の評論、社説、翻訳、詩、短編小説を執筆したのですから。

 

先ほど紹介した彼の小説『最後の島の記憶』は、1856年に最後の島を襲った壊滅的なハリケーンを題材にしたもので、1888年に出版されています。

1888年に出版されたこの小説は、ルイジアナ州南東部の沖合にある湿地帯と堡塁島を、現在は急速に侵食されていることを強く印象づけた。ハーンは、この地域の避暑地を楽しむクレオール貴族の世界を描いています。(残念ながら日本語には訳されていないようです)

 


ニューオーリンズの後の生活


1887年、ハーパーズ社は小泉八雲西インド諸島に派遣し、そこで2年間勤務した後、1890年に日本に移住しました。

 

小泉八雲東京大学の教授となり、武士の娘であった小泉節と結婚しまし小泉八雲と名乗りました。著作には、東の外-新日本の霊言と研究』(1895年)、『心-日本の内なる生活のヒントと響き』(1896年)『日本の面影』(1898)、『怪談』(1899)などいろいろあります。

 

これらは当時不透明だった日本文化を西洋の聴衆に伝える上で、彼は中心的な役割を果たしたようです。1904年9月26日、大久保で死去。

 

クレオール料理

ルイジアナには、クレオール料理と呼ばれる料理があります。

小泉八雲は「クレオール料理読本」という本を出しています。

クレオールは、ヨーロッパから直接、南部を目指した裕福な人々の食と現地の食がミックスした料理、つまり、農民のケイジャンよりも少し品格がある料理とされています。

 

 

 

 まとめ

 

ギリシャで生まれ、日本国籍を取得した小泉八雲ニューオーリンズの文学生活にも多大な影響を与えています。

 

小泉八雲は1877年から約12年間ニューオーリンズに滞在しました。地元のクレオール文化をわかりやすく他人に説明する方法を学んだようです。そして、この背景が後日、彼が日本に住み、日本のことを書いているときにも非常に役立ったそうです。

 

葬儀の風習、幽霊、ブードゥー教、スピリチュアル的な題材など、名前を挙げることができないほど豊富なトピックはすべて、八雲の豊富な題材から恩恵を受けているといわれています。

 

小泉八雲は「クレオール料理読本」という本を出しています。

クレオールは、ヨーロッパから直接、南部を目指した裕福な人々の食と現地の食がミックスした料理、つまり、農民のケイジャンよりも少し品格がある料理とされています。

*1:『シティ・ザット・ケア・フォーガット』(City That Care Forgot)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、ドクター・ジョンドクター・ジョン・アンド・ザ・ロウワー・911名義で2008年に発表したスタジオ・アルバム。2005年のハリケーンカトリーナにより甚大な被害を受け、その後も復興の進まない故郷ニューオーリンズを題材とした作品である

*2:

アメリカのルイジアナ州にある都市、ニューオリンズのこと。音楽の都として知られるニューオリンズですが、そこに住むジャズミュージシャンたちや住人たちの気楽(easygoing)でリラックスしたライフスタイルを表しています。

" I kissed my wife goodbye for a few days as I'm off to the 'Big Easy' on a business trip."
私は妻にキスをして、行ってくるよと言った。出張で数日間、ニューオリンズに行くからだ。また別名で、ニューオリンズはCrescent City とも言われます。市の一部が三日月形(crescent) であるため、このニックネームがついたようです。